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●高松宮記念ハンセン病資料館
東京都東村山市青葉町4-1-13、042-396-2909、13時〜16時、月、金、祝祭日休み
無料だが、「寸志として200円程度、募金していただけるとありがたい」の表示あり
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ハンセン病の正式の病名は「らい」です。長いあいだ、人びとはらいに対して偏見と差別をもちつづけてきたためにいまわしい過去をきりすてて、正しい認識を持ってほしいというねがいから、らい菌の発見者ノルウェーの医学者ハンセン博士の名をとってハンセン病という一般名が、使用されております。 |
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かつて、全生園がハンセン病患者の収容施設だったため、ここに資料館ができたらしい。 |
明治40年に制定された、「らい予防法」が全ての元凶。この法律は、当時、治療不可能だったハンセン病の撲滅のために制定されたのだが、その手段は、なんと、患者を隔離、断種し、患者もろとも病気を撲滅する、というものだった。
●ハンセン病患者を多数抱えた集落(仕事して生計をたてている者もいた)が、昭和15年、警察の刈り込みにあい、住民が強制収容された話
●ハンセン病を発病した10歳の少年が、強制収容され、親戚一同から縁を切られ、半ば忘れられた存在になってしまった話
これらの話は、氷山の一角らしい。
収容条件もひどく、基本は「12畳半に定員8名」。夜は火鉢や机を外に出さないと布団が敷けない狭さだった。患者の結婚は認められていたが、夫婦舎はないに等しく、通い婚となり、そのことが居住スペースの悪さに拍車をかけたらしい。
患者は包帯巻き、洗濯、土木工事までなんでもこなしたが、賃金は一日働いて「煙草銭」程度。しかも、作業賃の予算が無く、働いた人は、賃金分だけ食費、医療費等を削られる「タコ足生活」を強いられていたそうだ(とんでもない話だ)。
ばかばかしいからと言って、働かないとどうなるか? 昭和16年に山井道太という患者が、「穴の開いた長靴では、足の怪我が悪化するので働けない」という理由で、2、3日間仕事を休んだそうだ。その結果、彼は、所内監房に入れられ、食事もろくに与えられず、42日後に出獄を許されてすぐに衰弱死してしまったという。。。
全くひどい話である。
当然、逃げだそうとする患者もいたが、場内には見張所があり、堀、カラタチの植え込み、有刺鉄線がめぐらされていたので、逃亡は困難だった。万が一、逃亡に成功しても、「逃走患者名簿」に掲載され、他の施設に顔写真入りのブラックリストが回る仕組みになっていたとか。
他、逃走を防ぐしくみとして、園内通用券があった。患者は入所とともに、有り金を全て没収され、園内でしか通用しない「お金」を渡された。紙に印刷したもの、金属製のもの等あったが、作りが粗悪なので、偽造騒ぎも起こったらしい。ひどかったのは、セルロイド製のもの。小学生が持ち物につける、プラスチック製の名札状態の色板に、金額が書いてあるだけ。(こんなもの使っていたら、生きる気力もなくなるだろうなぁ・・・。)没収された金はどうなったか?当然、職員による使い込みもあったようで、全生園では、昭和30年、園内通用券廃止時に73万円不足事件もあったらしい。
展示されていた園内通用券には、円、楕円、三角、四角、いろいろな形があった。これは、ハンセン病患者には失明する者が数多くいたからだそう。ちなみに、病が進むと、指先の感覚もなくなるため、患者は点字の「舌読」を余儀なくされたという。。。
日本には1907年に23000人いたハンセン病患者が、92年には7000人にまで減った。それは、栄養状態がよくなり、感染しても発病しなくなったのが一因である。また、昭和25年頃から、治療薬(当初は「ブロミン」を静注して使っていたが、現在では、リファンピシン、ランプレン、プロトゲン、マクロライド、ニューキノロン、ミノマイシン等の多剤併用)が普及し、治る病気になったからである。それなのに、らい予防法が廃止されたのは、なんと!1996年。患者が今までの不当な扱いを求めて起こした訴訟も、国が賠償金の支払いを拒んでいるため、決着していないようだし・・・。
昭和30年には、患者の子供(ハンセン病患者ではない)が寮から小学校に集団登校したところ、住民が反対運動を起こし、自分の子供たちを欠席させた、という「竜田寮事件」が起きている。(これ、今のオウムの問題と根っこは同じだな・・。)結局、最後は偏見や感情の問題に行きつくわけだった。
現在も、全生園内に住んでいる患者がいる。彼らの9割は病気は治っているのに、偏見、高齢等のため、行き場がないそうだ。ハンセン病問題はまだ終わっていない。
(以上、資料室内撮影禁止。)
陰鬱な気分で資料館を出、園内を見て回ることにした(随所に説明看板あり)。
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写真は養豚場の跡。 |
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なお、当初は礼拝堂が一軒、神社が一つあるきりだったが、人権重視のため、各宗派ごとに宗教施設が作られるようになったらしい。 |
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建物前の敷石も、入所者が敷設したらしい。それまでは、雨が降るとドロドロヌタヌタで大変だったとか(私が行った時も、雨後で、石のない所はスニーカーでの通行は困難だった。) |
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一階建て、昔の「文化住宅」ふうの建物が数十棟並んでいた。 |
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目の不自由な方のため、とのことだが、なんか、もの悲しかった。 (点字ブロックにしなかったのは、昔からの入所者は、この方が慣れているからなのだろう。) |
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売店や隣のレストラン入り口には「居住者以外の方も利用できます」という貼り紙が。いちいちこういう貼り紙をしないといけない歴史が悲しい・・・。 |
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私、林道等でのエアガン遊びは「仕方ないなぁ〜」って黙認してますが(現場見たわけじゃないけど、玉が散乱していたり、林道看板がボコボコになっていたり、穴だらけの空き缶が落ちていたりするので、愛好者は多いのでしょう・・・。) 何かのきっかけで、このHPを見てしまった方へ! 悲しい歴史のあるスポットです。ここでのエアガン遊びは絶対にしないで下さい。お願い。 |