アウシュビッツ平和博物館

昨年、友人から、栃木県塩谷町に「アウシュビッツの博物館ができた」という話をきいた。その博物館が、敷地を貸している会社の倒産で、02年3月いっぱいで閉鎖に追い込まれる、とテレビでやっていたので、慌てて、見に行くことにした。
建築会社のだだっ広い敷地の一角に三棟のプレハブが建っていた。これが博物館。
もともとは壁面にレンガが貼られていたようだが、撤退を二週間後にひかえ、剥がして回収する作業が進められていた。

館内は撮影禁止なので、以下、写真はありません・・・。

受付に行き、「入館料は?」ときいたら、HPに掲載されていたとおり、3月中は本当にタダだった。「移転、再建のための募金に協力していただけるとありがたいのですが・・」とのことだったので、一口1000円の募金をした。私にこの博物館を教えてくれた友人は、「この博物館、入場料が1000円で高すぎるように感じた」と言っていた。博物館巡りをしている私からみると、この金額、私設の博物館の中ではけっして高い方だとは思わないが、ドライブのついでにちょっと寄ってみようか、という人は、料金見て、入る気をなくすかも。

多くの人にとりあえず見て貰うためには、料金は無料で、気に入ったら1000円のカンパお願いします、という方がいいやり方かもしれない。

「移転先は決まったんですか?」ときいたら、「白河市です」とのこと。壁に貼ってあった新聞のコピーを見たら、白河ICから4キロの場所にある牧草地の買収は終わっており、現在、建設資金(5000万円)を集めているところだという。栃木県内でなんとか土地を確保したかったが、予算的に無理だったそうだ。「白河なら、高速使えば、東京から日帰りで行けますよ」と言ったら、「そう言っていただけて嬉しいです」って。でも、首都圏から離れるってことは、集客的には不利だな。

受付で、「10時から二つ隣の建物で、ビデオの上映会をやります」というので、見に行くことにした。「絶滅収容所 アウシュビッツ」(20分)「夜と霧」(31分)の二本立てだった。前者は一般的なホロコーストの紹介ビデオ、後者は、フランス(?)で制作されたものの字幕吹き替えだった。死体山積みや、生首ごろごろといったショッキングなシーンが出るたびに、「ひどい」「うわ〜」という声が客の間からあがった。こういうシーンが出ることは予想していたが、見ていて気分が悪くなった。

ビデオ鑑賞の後、展示を見て回った。

●ホロコーストについて
1919年、第一次世界大戦の責任の大半はドイツが負うものとされ、ベルサイユ条約でドイツに膨大な賠償金が課せられた。そのため、ドイツ経済は大混乱に陥った。このような中に現れた新政党ナチスは、「ベルサイユ条約は間違っている」「自分たちが生き残るためには、力づくでも新しい支配権を獲得する必要がある」「ドイツの窮状はユダヤ人という存在自体を抹消しないと解決しない」と主張した。1929年に始まった世界恐慌が、ナチスに共感する人を増やした。1933年にヒトラー政権が誕生し、当時600万人いた失業者を、アウトバーン建設等の新しい政府事業を起こしたり、軍隊で雇用したりして、全て吸収した。しかし、工事が終了してしまえば、また、失業者が出てくることになる。そこで、ヒトラーは、東ヨーロッパを占領し、そこに住んでいた人々を追いだす(3000万人)か、殺す(2000万人)かし、あいた土地にドイツ人を住まわせる移民計画を考えた。この「東方植民地総合計画」実施の結果が第二次世界大戦だった。犠牲になったポーランドでは、多数の強制収容所が作られ、ユダヤ人やロマ等が大量虐殺された。

●レスキュアーズ関連(期間限定の特別展示)
レスキュアーズというのは、ナチスに駆り立てられるユダヤ人を守るための活動をした人々。活動内容は、偽の身分証明書を作ったり、配ったり、ユダヤ人をかくまったり、ナチスの政策について反対したりといったもの。一人一人について、詳細にパネル展示されていた。現在、レスキュアーズに認定されているのは、9295人。オランダ人とポーランド人が3000人で最も多い。唯一人の日本人レスキュアーズは、杉原千畝(1900〜86年)。リトアニアの日本領事代理だった彼は外務省の方針に逆らい、ユダヤ人難民に、日本通過ビザを発給し続けたという。彼はそのため左遷されたが、彼の行為により、6000人のユダヤ人が救われたという。
このコーナーで心に残った言葉は、
「子供に利他主義を教えるのなら、親が犠牲になるべき」だった。

●アンネ・フランク関連
1929(昭和4)年生まれ。
1942(昭和17)年7月、ナチスに追われ、隠れ家に入る。
1944(昭和19)年8月4日、密告されて、捕らえられる。
1945(昭和20)年3月、ベルゲン・ベルゼン収容所で腸チフスで死亡。15歳。

アンネ・フランクの話は、遠い国の昔の話・・・というイメージがあったが、アンネの写真やエピソードを見て、平和な時代ならどこにでもいる普通の女の子だと感じた。もし、そのへんにいる中学生を連行して、これと同じことが行われたら・・・考えるだけでもおぞましい。今から見ると、異常なことが普通に行われていたのが、ナチス時代のヨーロッパ。酷い。

●日記の複製--日記のオリジナルは、オランダ国立戦時資料研究所にあり、門外不出らしい。私はドイツ語はほとんど読めないが、これがもし日本語で書かれたものだとしたら、身近なこととして、さらにショッキングな印象を受けただろう。
●各国で出版されたアンネ・フランク関係の書物の一部は自由に読むことができた。

●収容所の写真、構造図、収容所関連の物件
●囚人から没収されたもの--くし、靴ブラシ、トランク、靴墨等。貨物列車にぎゅうぎゅう詰めにされて、収容所に運ばれた囚人たちは、「衛生環境維持のため、シャワーを浴びる。荷物を預けて裸になれ」と言われ、荷物を預けさせられたが、その荷物は没収され、二度と戻ってくることがなかった。自分の荷物を判別するために、トランクに書かれた文字が哀れ。

●囚人の写真--髪を切られた囚人の写真が3枚組で展示されていた。囚人は髪を全部剃られていた。(髪は羽根布団や布として利用されたらしい)写真の一枚は帽子やスカーフをかぶったもの。逃亡時の格好を推測するためにわざとかぶりものをさせて撮らせたという。

●収容所で配給された木靴と服--入所時に履いていた靴は没収され、サイズの全く合わないものを支給された。とくに木靴は、こんなもの履いて作業なんかできるか?というひどいもの。すり減って穴のあいたものもあった。

●高さ120センチの鉄棒--120センチ以下の子供と、14歳以下の子供は労働力とみなされず、即ガス室送り。因果な鉄棒である。子供たちはガス室送りを免れるため、背伸びして、鉄棒をくぐったとか。

●高圧電流の鉄条網警告板
囚人側ではなく、収容所の外側に向けて設置。絶望した囚人が鉄条網に触れて死んでもかまわない、ということ。

●囚人服につけられたマーク--同性愛者、エホバの証人なんてのもあった。収容所に送られた「劣等な人間」というのは、ユダヤ人だけではなかった。

●収容所の看守
トップはナチスの軍人だったが、その下で働くドイツ人の犯罪者が、囚人の管理にあたった。囚人がノルマをこなさなければ、犯罪者たちは罰を受け、最悪の場合、処刑された。そこで、犯罪者たちによる囚人の管理はどうしても酷いものにならざるをえなかった。

●ドイツの大企業との関連
アウシュビッツ等の収容所でユダヤ人を虐待していたのは、軍だけではなかった。安価で使い捨てがきく労働力として、ドイツのいくつかの大企業は、囚人たちを使役したのだ。大企業がホロコーストの実態を知っていて、見て見ぬふりをしていたことは、私にとってショックだった。

この博物館で一番印象に残ったのは、「アウシュビッツの子どもたち」(青木進々著・グリーンピース出版会)という本から抜粋された文章だった。

1945年5月、ナチスドイツは滅びた。

いま・・・アウシュビッツには親をさがす子どもたちの泣き声も、子をさがしてドイツ兵とどなりあう親の声もない。収容所のあとはそのまま残され、博物館になっている。ドイツは、ナチスのしたことを人道に対する犯罪だったと認めて、いまでもつぐないをつづけている。
でも、アウシュビッツはほんとうに終わったのだろうか?
ヒトラーは死んだ。ナチス・ドイツも滅びた。でも、ヒトラーを尊敬する人はいまでもいる。かれらは「ネオ・ナチ」とよばれ、その数はふえつづけている。

なぜだろう・・・
いま、私たちの心の中に、「優秀な人間」と「だめな人間」とを分けようとする考えがないだろうか?
みんなと同じことをできない人を「だめなやつ」だと決めてしまうことはないだろうか?
みんなとちがう意見をいう人を「じゃまなやつ」だといって、仲間はずれにすることはないだろうか?
強い者にきらわれたくなくて、いけないことが分かっているのに、やってしまうことはないだろうか?自分さえ得すれば、「他の人なんかどうでもいい」と、思うことはないだろうか?
あの時のように・・・

アウシュビッツは、狂った人びとが、まちがえて作ったものではなかった。ドイツ人がどうかしていたのでもなかった。
ただ、自分が困った時に、もっと困っている人びとを思いやれなかった。自分さえ安全なら、ほかの人がすこしくらい苦しんでも、すこしくらい死んでもしかたがないと思っていた。
自分が優秀で正しいと思うあまり、自分がほんとうはなにをしているのか、分からなくなっていた。
もしかしたら、アウシュビッツで罪をおかした人びとは、みんなどこにでもいる、ふつうの人たちだったのではないだろうか?
私たちと同じように・・・

アウシュビッツはほんとうに終わったのだろうか?
ガス室は、ほんとうに消えたのだろうか?
120センチの棒は、もうないのだろうか?
私たちの心の中に、アウシュビッツは、ほんとうにないのだろうか?

大虐殺を単なる歴史的事件で終わらせてはいけない、条件さえ揃えば、また、似たような事態は起こりうる、ということである。全体を通してみて、博物館の展示は、この視点に沿って行われているような印象を受けた。
ヒトラーが政権を取る前に、「彼の言っていることは危険だ」と気づいている人がたくさんいれば・・・ユダヤ人がゲットーに隔離され始めた時点で、激しく反対する世論があれば・・・しかし、たいていの人は歴史の流れに無関心だったのだろう。これは、今の時代も変わらないが。そして、ユダヤ人狩りが始まると、見て見ぬふりをする人が大半だったにちがいない。自分の身かわいさに、密告する人を私は責めることができない。

結局は、自分の心の問題じゃないか・・・。

こう書いたら、大学でユダヤ人問題を専攻していた友人に「あまりにも情緒的すぎ。もっと歴史を勉強しなさい」と言われてしまったけれど、
いろいろ考えさせられる博物館だった。

●アウシュビッツ平和博物館(アウシュビッツ・ミュージアム)
02年5月現在、移転のため一時閉鎖中。詳細は公式HP参照