品川・旧東海道探訪(2)

沢庵和尚(1645年死去)の墓は、東海寺から300mくらい離れた線路沿いの墓地にあった。墓石は大きな漬け物石の形をしていた。沢庵だからか?(笑)

だけど、江戸時代初期の標準的な墓石の形って、これが普通だったのかも・・・。

沢庵禅師の墓の隣りに、賀茂真淵、井上勝(明治時代に活躍した「鉄道の父」)の墓もあった。

【海蔵寺】

この寺は、1708年(宝永5年)に品川の牢屋で亡くなった方のために無縁塔が作られたのを発端に、天保の大飢饉(1833〜40)の215人塚、品川宿の娼妓大位牌、鈴ケ森刑死者の首塚、★津波溺死者供養塔(慶応元(1865)年→安政江戸地震と思われる)(写真右)、★京浜鉄道轢死者供養塔(大正4(1915)年)(写真左)、★関東大震災横死者供養塔(昭和7(1932)年)(写真中央)等、無縁仏の慰霊碑だらけになり、「品川の投込寺」と言われるようになった。★印3個は、実物を確認できたので、写真を撮った。

鳳凰の飾りのついた東海橋を渡り、旧街道方面に戻ることにした。このあたりも寺だらけだ・・・全部見ていると時間が足りなくなりそうなので、地図に面白そうな記述のある寺のみ、回ることにした。

【海徳寺】

地図に書かれていた「ホームラン地蔵」は探したけれど、見当たらず。きこうにも、寺に人はいないし・・・。残念ながら、これはあきらめたが、この寺も慰霊碑だらけ。

軍艦千歳殉難者之碑

明治廿九年十二月九日という日付は、日清戦争の数年前なのだが・・・いったい何があったのか?

「五百五十御遠忌報恩塔」(天保飢饉の慰霊碑)
植え込みの陰になった壁に、木の札(高札?)が貼ってあり、「一、切支丹・・・・ 一、邪宗・・・・固く禁止候事 慶応四年三月 太政官」と墨で書かれていた。これってホンモノの当時の切支丹禁止令?

他、「筆塚」、焼死溺死緒精霊法界万霊(文政12年(1829年)3月21日建立だが、直前に大災害の記録がなく、建立のきっかけは不明)等。

よくわからない慰霊碑、物件だらけの寺だった。

品川橋の欄干。

さきほどの東海橋の鳳凰といい、この界隈の橋の欄干巡りも楽しいかも。

飲み食いしないで回っていたため、空腹で我慢できなくなり、品川橋近くのマーケットの出店でごま大福とポカリスエットを買い、これが今日のお昼その一になった(その二は、その後で食べたいちご大福)。食後に郵便局で買い物し、地図を見たら、しばり地蔵を見落としていたことに気づき、また、さっき歩いた道を戻る羽目に・・・歩きづめなので、いいかげん、足が痛くなってきた・・・。

【願行寺のしばり地蔵】

しばり地蔵は、災いをお地蔵様が、依頼人にかわってかぶってくださる、というものだった。

どこぞやのしばり地蔵は、縄でぐるぐる巻きにされ、すごい外見になっているそうだが、願行寺のお地蔵さんは、寺の人が巻いたと思われる縄が上品にかかっているだけだった。しかし、鉄道の高架脇の寺って、なんか悲しいな・・・。

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