谷中村跡&田中正造の史跡巡り(1)

谷中村(現・栃木県藤岡町)は足尾鉱毒事件で抹殺された悲劇の村である。

足尾銅山からの鉱毒のため、明治10年(1877年)以降、洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れるという被害が出ていた。明治33年(1900年)に被害者が大規模な抗議行動を起こした川俣事件、明治34年(1901年)の田中正造の直訴事件等で、この件は国会でも問題になった。しかし、鉱毒事件の解決のため、明治政府は、足尾銅山の操業を止めるかわりに、毒の水をためる「渡良瀬遊水池」の建設を行うことにした。その犠牲になったのが、強制立ち退きをくらった谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみ、「藤岡村との合併、吸収」「土地の買収、住民の強制立ち退き」に反対したが、無視され、明治39年(1906年)、谷中村は法律上、消滅し、土地は不当に安い値段で当局に買い上げられた。387戸、2500余人の住民のうち、16世帯約100名は、村のあった場所に住み続けたが、明治40年(1907年)、県当局は、村人の家を強制的に壊してしまった。堤防も破壊されれため、村のあった所は増水時には水没する状態になった。納得できない者たちは、仮宅小屋を作り、この地に住み続けたが、結局、大正6年(1917年)、残留民は各町村に移住し、谷中村は名実ともに滅亡した。

数年前に、谷中村跡は一度訪れているが、今回、田中正造関連の史跡も含めて、2日がかりで回ってみることにした。

渡良瀬遊水池は広い。以前、史跡ゾーンの反対側の駐車場にバイクを停めたら、湖をえんえんと横断する羽目になったので、今回はそういう失敗はすまい。「旧谷中村合同慰霊碑」の看板を目印にバイクを脇道に入れた。合同慰霊碑は柵の中。朝早いせいか、扉がまだあいていなかった。そこで、柵を乗り越え、中に入ってよく見たら、奥の方の入り口が開いていた(汗、恥)。

【旧谷中村合同慰霊碑】

合同慰霊碑(昭和48年建立)はけっこう大きかった。
村内にあったほとんどの遺骨が、ここにまとめて集められているのだ。慰霊碑の周辺は石仏と墓石が併せて数百。ある意味壮観である。
石仏マニアが見たら喜びそうな、立派なデザインの石仏も多い。年号を見たら、宝暦、寛政、元禄、寛保、安永、享保・・・江戸前期のものも混じっていた。

合同慰霊碑の近くに、別の慰霊碑が二つあった。

旧渡良瀬遊水池は、渡良瀬川の水を赤麻沼に落水するというものだったが、昭和10年、13年、22年と大出水があり、洪水調節機能をさらに高める必要性が起こった。調節池が3つ作られることになったが、そのさいの工事の犠牲者の慰霊のために建てられたのが、「渡良瀬遊水池調節池化工事 殉職者慰霊碑」(昭和47年)(殉職者8名)。

もう一つの慰霊碑はどういう趣旨のものか、謎だった。

以下、慰霊碑に書かれていた文章である。

 血ヲナガス北方
 ココイラ グングン
 密度ノ深クナル
 北方ドコカラモ
 離レテ荒涼タル
 ウルトラマリンノ
 底ノ方ヘ
    逸見楢吉 報告
    昭和47年11月建立

 我等の父母 並びに姉と兄 此処に眠る
 鎮火
 兄 日出吉 遺族 栗橋町・・・・・・・(略)

 昭和21年5月17日 逸見楢吉
 昭和21年7月15日 静
 昭和12年1月16日 多聞
 昭和21年8月2日 真由子
 昭和23年8月4日 隆一

家に帰ってから、延命院墓地跡のボックスに入っていた「谷中村の遺跡を守る会」のパンフを見たら、 これと関連ありそうな事実が書いてあった。

旧谷中村の村民の大半は、隣接の藤岡、野木に移住したが、土地を持たず生活が苦しかった者は、北海道のサロベツ原野に追いやられたそうだ。ジャガイモやハッカを育てて生計をやりくりしたが、一部、米の栽培に挑戦した者もいたという。旧谷中村村民他の移住者96世帯は、1972年当時、その半数に減っていた。現在ではさらに減り続け、わずか数世帯しか残っていないという。佐呂間町栃木地区という所だそうだ。

上の、逸見楢吉氏の詩、「北方」という言葉が出てくるが、逸見一族はサロベツ原野に移住した開拓民なのではないだろうか? 戦後の食糧難の時代に、家族が次々と死亡し、生き残った者がこの碑を建てたのでは? あくまでも推測だが。(この碑の由来について、ご存じの方は教えていただけると助かります。)

慰霊碑を後にし、谷中村跡地へと向かった。今回は史跡ゾーンの入り口までバイクを入れるぞ〜と思ったら、まだ、ゲートがあいていない!時刻は8時過ぎ、ゲートがあくのは9時半。1時間も待つのはイヤだ。ゲート内でポンプ施設の工事をやっており、ゲート番をしていた若いお兄さんが鍵を持っているようだったので、「鍵開けてくれませんか?」とおねだりしたら、困った顔をされた。きいたら、この方、昨日からここに配属された新人さんらしい。それじゃあ、規則破りは無理だよね? そこで、私はゲートの脇にバイクを停めて、「徒歩でゲート破りします〜」と宣言、困惑顔のお兄さんを見ながら、ゲートインした。まぁ、徒歩ならいいでしょ・・・。

【谷中村遺跡】

ゲートから駐車場までは数百メートル、たいした距離ではなかった。

雷電橋。

路面はよく整備されていた。

雷電神社跡。

田中正造ゆかりの神社らしい。

延命院墓地跡。

当時の墓石や卵塔が残されており、なんともいえない悲しい雰囲気だった。安政や天明の年号の入った墓石の下のお骨は、合同慰霊碑の方に移されず、まだここにあるようだ。

平成12年に「谷中村遺跡を守る会」が建立した卒塔婆が立っていた。 この会、マメに活動しているようで、イベントのお知らせが掲示板に貼り出されていた。「中の資料自由にご覧下さい 感想など記入して下さい」と書かれたボックスがあった。除いてみたら、ちゃんとノートとペンが入っていたので、感想を記して帰った。

村役場跡。

今まで回った所は、地図の左下部分。

そこから、史跡を全部見て回ると約3キロのコースになるらしい。1時間あれば大丈夫だろうと思ったが、ルートを間違え、あっちうろうろ、こっちぶらぶら、という状態になり、結局、5キロ以上歩いた。足首の固定されないオンのブーツだったので、靴擦れができてしまった。バンドエイドで応急処置したが、水ぶくれになってしまった(涙、痛)。スニーカーを持ってくればよかった。

一面の葦原の中の砂利道を歩く。

左手のこんもりした所が民家の跡地。

水害を避けるため、雷電神社跡、役場跡同様、高台になっている。

大野孫衛門屋敷跡、大野豊蔵屋敷跡、大野音次郎屋敷跡、岩崎正作屋敷跡等を見て回ったが、建物は土台も残っておらず、木の生えた丘(水塚)があるだけだった。整備されているのは一部で、大半の屋敷跡は草ボーボーのヤブ状態で、遠くから見るだけである。

谷中村は悲惨な歴史だが、遺族や、有志の方々がこうやって、遺跡を守ったり、歴史を語り継いだりしている。それだけがせめてものなぐさめだな。
そして、
「私たちの幸福は、他人の不幸の上に成り立っているのだ」ということを忘れてはならない、と感じた。

駐車場に戻ってきたら、レンタサイクルが並べてあった。「9時半〜16時、2時間300円、以後30分ごとに50円」と書かれていたので、これを使えば時間、体力ともに節約できるかも。

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