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4年前に水俣に行った時、水俣市立水俣病資料館は見たのだが、あまりにもこぎれいにまとめられすぎていて物足りなかった。直後に行った水俣病歴史考証館は、係の人がおらず、電気も消えていて、見ることができなかった。
今回、水俣病歴史考証館を再訪することにした。
水俣病歴史考証館は市街地の南の方にある。たしか、看板がR3沿いに出ていた筈。念のため、ガススタのオッチャンに訊いたら、「そんな施設はきいたことがない」と言って、水俣病資料館のパンフを引っ張り出してきた。それはちがうって。仕方ないので、独力で施設を探すことにし、山沿いの小径を登ったり下がったり。
やっと、4年前の見覚えのある場所に出て、考証館の小さな案内看板を見つけた。 |
看板にしたがって、考証館をやっている相思社の敷地に入ったら、事務所から男性が出てきて、「資料館の前まで登ってもいいですよ」。それでバイクを敷地最上部まで登らせた。4年前のあの日と同じ、気温35度状態。暑い暑い。 |
受付で「パネル以外の写真撮影OK、HP掲載OK」の言質を取ってから資料室に入った。資料室には冷房はなかった筈だが?と思ったら、大きな扇風機が数台。これだけでもだいぶ違うね。
大枚はたいて作られた水俣病資料館に比べ、こちらの展示はハンドメイドである。 |
![]() ![]() かつて水俣で使われた漁具や漁船。漁船模型は手作り。 この頃の水俣には地域による階層があった。漁師部落は最下層だったが、水俣病が発生する前、漁師は魚を主食とする豊かな生活を送っていた。 |
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←身の回りのチッソ製品。 |
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←中央の上下のフラスコ(白とオレンジ)が水銀化合物。触媒として使われた。 |
| ○1954年(昭和29年)、「猫てんかん」で猫全滅。ネズミが激増。 ○1956年(昭和31年) チッソ付属病院の細川一院長が「今までに見たことのない患者」を保健所に報告。これが水俣病患者公式報告第一号。 ○59年(昭和34年)7月、熊本大学研究班は、「水銀が水俣病の原因である」という結論を出した。 |
チッソ付属病院の細川一博士らが熊本大学研究班に反論するために同年10月に行った実験で、水銀により猫が発病することがわかっていたが、チッソは結果を隠蔽した。その実験に使われた猫小屋実物展示。チッソが熊本大学研究に対して行った攻撃文書も展示。 |
| この時点で、水俣の魚を捕るな、という指導があれば、新たな患者発生は防げたが、厚生省は何もしなかった。このせいで、1973年(昭和48年)に新たに患者が発生してしまった。 |
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←この旗、説明が無かったのだが、デモをしたさい、漁船に掲げていた幟旗か?どこかでそんな写真を見たことがある。検索してみたら、漁船デモが行われたのは、1973年(昭和48年)のことらしい。 |
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○チッソは「当時、水俣病の原因がわからなかったので、水銀を垂れ流していました」。現在でもこの言い訳は影響力を持っている。 ○水銀は1932年(昭和7年)から36年間たれ流しだった。水銀を止めたのはアセトアルデヒドの製造方法が変更になったため。政府はそれを見届けてから公害認定を行った。 ○1968年(昭和43年)に初めて患者の家をチッソ社員が回ったが、その後も誠意は見られなかった。「貧しい人へのお見舞い金」程度の少額を配布した。患者に配った「これ以上の補償を請求しないということに同意します」という契約書が展示されていた。この契約は以後の水俣病裁判で「公序良俗に反する」ということで、無効にされた。 |
![]() ![]() ![]() 水俣の繁栄はチッソによるところが大きい。患者がチッソの足を引っ張っていることに腹を立てた地元住民と、患者(とその支援団体)の間で新聞の折り込み広告という形で中傷ビラ合戦が発生した。1971〜72年(昭和46〜47年)。 「患者さん、会社を粉砕して水俣に何が残るというのですか。私達の明日の生活を誰が補償してくれるとでも言うのか」といった文面。実物が多数展示されていた。 |