渥美の戦争遺跡ツアー参加体験記
(5)

次は伊良湖小学校前にバスが停車。

そこから伊良湖神社への参道が延びている。
この神社は、射線上にあるということで、明治期に伊良湖集落ともども今の場所へ移転させられた。小学校脇の石碑は、移転のことが記されたものらしいが、藪ボーボーで近づけない。

その隣に軍人の像が。「故・小久保幸一郎」氏の像らしいがそんな人知らないぞ〜。

像の台座には「忠烈」「松井大将書」の文字あり。松井大将といえば、南京攻略の責任者。名古屋駅近くにも松井氏の書があったし、彼は引っ張りだこだったんだな。やはり、こちらも南京攻略(昭和12年)の後か?説明看板が欲しい。

私と友人が軍人像にかかずらわっているうちに、団体さんは先に行ってしまったので、小走りに追いかけた。そこでまた説明会。

これから見るのは大戦末期、28糎榴弾砲が設置されていた陣地。この大砲は日露戦争時に使われていたもの。ここから撃った弾丸が山越えして、海岸にいる上陸してきた敵を頭上から攻撃する予定だった。日露戦争時なら無敵に近い攻撃法だったが、太平洋戦争時にそんなことをやったら、敵の飛行機にすぐに潰されていただろう。→無駄な抵抗とわかっていても、こんな手段で攻撃せざるをえない日本軍の悲しさ。
それから、こちらからも相手の位置が見えないので、近くの山の上に観測所があったらしい。観測所跡地の見学には、麓から歩いて2時間かかるらしい。
28糎榴弾砲は戦後もしばらく残っていたらしいが、朝鮮特需で売られてしまったらしい。残念。

28糎榴弾砲は、那須の戦争博物館に実物があった(実は映画撮影用の実物大模型)。
陣地跡にはこの道を入る。
伊藤氏に引率されて林道をぞろぞろ。目的の大砲陣地は左手の藪の中(この画像では右手になる)
「ジネンジョ掘りの穴があるので足元に気をつけて」と言われながら、列の後ろにくっついていったら、塹壕のような溝に出た。各施設を結ぶ「交通壕」と呼ぶ溝らしい。ここにもコンクリの遺構は無し。穴を掘って木で屋根や壁を作っていたため、現在では窪みしか遺構が残っていないのだ。

配られた資料にはこの陣地の発掘地図が掲載されていた。

まず、SK07と呼ばれるL字型の窪み。軍隊の組織は、分隊→小隊→中隊というふうになっているが、このあたり一帯には中隊が駐屯していた。伊藤氏の推測では、SK07は小隊長の部屋だったのではないか?とのこと。中隊長はここから離れたSK05にいたのかなぁ、と伊藤氏。あくまでも推測でしかないのは、軍隊が全く資料を残していないかららしい。実際にここで働いていた人をつかまえて証言が取れればいいのだが、終戦から60年たってしまった今となってはそれも難しいのだろうな。

次に榴弾砲が設置されていたSK04、SK03の見学。前者は真ん中に水の溜まった直径10メートルの窪地。

後者は周囲が崖になった窪地で、設営に堀切小学校の生徒が学徒動員されたらしい。立派だが、広角レンズでもないと、全部撮るのは大変だ〜。友人にいい撮影スポットを教わりながら、あっちうろうろこっちうろうろ。

しかし、実踏調査で陣地の地図を作った人は偉い!私たちが案内してもらったのは、地図の20分の1くらいの面積で、この付近、ふな山、宮山山頂部まで含めて、あちこちに遺構が点在しているのだ。いったいこの地図を作るのに、何ヶ月かかったんだろう・・・。

またバスに乗り、菜の花祭りの会場へ。トイレ休憩も含めて20分くらい。伊藤氏にどうしても質問したいことがあったので、忙しそうな彼を捕まえて訊いてみた。

問;山越え榴弾砲が本土決戦のさいに運用されていたのは初耳だった。三浦半島にもこのようなものがあるか?
答;三浦ではきいたことがないが、小田原と上総一ノ宮にはある。築城史の本に載っている。小田原の戦争遺跡については学校の先生がまとめた本がある。

とのことだった。ということは、自分で文献漁って勉強しなくちゃだめか。ネットで調べて実踏調査だけでは限界があるな。

最後に初立湖湖畔にある東大寺瓦窯跡をバスの中から見学。

帰りのバスの中では疲れて爆睡。途中、大崎島の海軍橋の話、ユタカ自動車学校近くの二六公園、二五連隊跡等の解説があったが、豊橋市内の地理には詳しくないのよねぇ、私(ノД`)
→2006年に豊橋の戦跡巡りをしました。レポはここをクリック

5時前に美術博物館前にバス到着、解散。

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