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回天の基地があった場所といえば、山口県周南市の大津島が有名だが、山口県平生町にも回天の基地があって、回天碑や、資料を展示している展示館がある、ということをきいたので、立ち寄ることにした。
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●平生町歴史民俗資料館 |
阿多田交流館は、湾沿いの新しく整地されたとおぼしきスペースの一角にあったが、ここに着くまで一枚も案内看板が出ていなかった。これじゃあ、知らない人は来れないじゃないか(ノД`) |
館内に入ったら、小学生4〜5人のグループが来ていて、係の男性が順を追って展示物の説明をしていた。最初は近くにある神花山古墳の説明。高射砲陣地を作ろうとした時に古墳が発見された、とか、古代人の栄養がいかに悪かったか骨を見るとわかる・・・など。説明は面白そうだったけれど、私の関心は回天のみ。撮影禁止という札もかかっていなかったので、事後承諾ということで、先回りし、回天関係資料の写真を撮り始めた。後で係員に確認したら、亡くなられた方や元隊員の方々のプライバシーに配慮し、阿多田交流館の展示内容の紹介ということであれば、HPでの紹介はいいでしょうとのことだった。
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平生の回天基地とその跡地の歴史 1942年 大竹潜水学校柳井(平生)分校を建設するため、その用地内にある田名・阿多田の住民の強制退去が始まる。 |
![]() ![]() 昭和15年、基地建設が始まる前の田名・阿多田立体模型(左)と、潜水学校の模型(右) |
この模型は、大竹潜水学校柳井(平生)分校の一部。中央部の板塀から上部(北側)に特殊潜航艇「蛟龍」「海龍」。下部(南側)には人間魚雷「回天」の訓練基地があった(昭和20年)。 |
建物の入り口付近に、強制退去をさせられた戸主(86人)による「ふるさとを偲ぶ」という石碑が立っていた。1996年に返還運動が和解、終結したそうだ。 |
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最初は潜水学校だけだったのだが、1945年に特攻隊の基地ができたため、敷地は板塀で二つに区切られた。潜水学校に昭和19年には約2000人いた、という記録があるが、特攻隊基地に何人いたのかは不明。回天搭乗員が当時1375名いたそうなので、4箇所の基地(大津島、平生、光、大分県大神)で単純に割ると350名程度になるが、正確な人数の割り振りは不明。 当時、回天は420基しかなかったのに、どうしてこんなにたくさんの搭乗員を採用したか、というと、訓練中に多数が犠牲になると考えられたようだ。(実際に訓練中に亡くなられた方は15名)。 |
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海龍、蛟龍等の小型潜航艇でなく、回天ばかりが特攻に使われた理由について係員に説明していただいた。私見だがと前置して「昭和19年末から20年に入ると戦局はますます悪化し、そのうえ制空、制海権を失った軍は、潜水艦に搭載できる回天以外の攻撃方法は考えられなかったのではなかろうか。特に外洋での戦いでは・・・」という返答であった。 |
| 海龍、蛟龍と違い、回天はいったん発進すると、構造上、自力で艇から脱出することは困難であった。だから、「決死の兵器」ではなく「必死の兵器」であったと言われている。 |
この平生基地でも所属する回天隊員の中に亡くなられた方が9名いらっしゃる。3人は訓練中に殉職され、5人の方は太平洋上に出撃されて戦死された。残りの一人の方は、特攻隊の隊長で終戦後の8月18日に自決された。この隊長の「自敬録」をはじめ元隊員の遺品や遺墨などが展示されている。 |