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頭部に1.55トンの炸薬を装着。潜入・浮上・転舵ができる一人乗りの兵器。 |
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潜水艦の潜望鏡に当たる。 |
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回天搭乗員が必携した。航走とともに作動させることにより、位置を判定したという。 |
![]() ![]() ハッチか?(直径61センチ) |
表紙に「軍機」「射法」「附襲せん法」と書かれている。 |
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食器の底面には「イカリ」のマークが入っている。 |
| 潜水学校柳井(平生)分校での特殊潜航艇の講習期間は約2〜3ヶ月。その後は国内の突撃隊基地に配属。この講習期間に書き込まれた隊員の学習帳も展示されているが、開かれたページには高度な物理、数学が書かれている。その他、昭和5年に製造されたジャイロコンパスや回天、蛟龍の設計図。分校の入口にあった若桜橋の一部、九二式魚雷の一部、回天の隊員が出撃のさい携帯した短剣など展示してある。 |
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三角兵舎で使用したという「ケーブル」の一部や、回天の訓練コース図がある。 |
![]() ![]() 当時、回天搭乗員の方が記入していた「回天搭乗記録」ノート。コピーであるが、自由に閲覧することができた。彼らがどういう点に留意しながら訓練を行っていたのか知ることができて、貴重だった。 |
| このコーナーには、この他、米軍への引き渡し(昭和20年8月31日)目録のコピーがあった。 |
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写真コーナーには、回天や回天を運んだ潜水艦の写真などが展示されていた。 写真を見ると、訓練用の回天の上部は白く塗られていたことがわかる。白塗りの理由は、陸上の見張り所から見た時に回天の位置をわかりやすくするためである。平生の場合、近くの島に見張り所があった。 |
小学生のグループが帰った後、大人の団体がやってきたので、係員の私に対する説明はその合間合間になった。で、閉館の午後4時。他の客が帰ってしまった後で、係員は私にさらにいろいろ説明して下さった。係員に「回天隊の関係者の方ですか?」と質問したら、「そうではありません。私は戦時中は中学の3年生で終戦の間際の時期は学徒動員で岩国の工場で働いていて原爆投下の瞬間を目撃しました」とのことだった。その日の夕方、被爆者を満載したトラックが岩国にやってきて、悲惨な状況だったとのこと(回天と関係ない話なので、詳細割愛。)
その後、回天碑への行き方を教えて頂き、4時半に交流館を出た。
●阿多田交流館
山口県熊毛町平生町大字佐賀3900-14、場所、目印は田名バス停、0820-56-1100
月休、祝休、年始年末休、9〜16時
★係の方が交替で出勤し、説明を行っている。係のローテーションについては、電話で確認して下さい、とのこと。
平生の回天碑は最近造成された海浜公園(港か?)にあった。背後はすぐ海(回天の訓練海域)。元回天隊の方々の「訓練した海が見える場所に慰霊碑を建立したい」という強い希望から今回の国有地払い下げを機に実現したという。すばらしい慰霊碑であった。 |
交流館に光基地の回天碑の写真があった。光ってここから近いんじゃないの?と調べたら、バイクで30分くらいの距離。そこで光の回天碑も見に行くことにした。場所についてわかっているのは、「光市光井」という地名と、かつての海軍基地が武田製薬の工場になってしまっているということと、碑が港の脇にある、ということ。
光井に着き、国道沿いのコンビニで回天碑のことを訊いたが、誰も知らず。仕方がないので、武田製薬への行き方を訊き、守衛室でキキコミ。そうしたら、工場敷地東側の港内にあることがわかった。港と言っても、工業港という雰囲気で、路面に砂は積もっているわ、「関係者以外立ち入り禁止」の看板はあるわ、で不安な道だった。
港について、碑どこ?ときょろきょろ。そうしたら、陸に揚げてある船の脇に発見。なんなの、この場所・・・。 |
この場所にこんな状況で回天碑があるのは、種々の事情によるのだろうが、たまたまこれを見た人が何だかわかるように、説明看板くらい立てて欲しい。 |
【関連】
大津島の回天記念館など
白崎の回天基地