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人間魚雷・回天は旧日本軍の特攻兵器の一つである。昭和19年、日本軍は制海権を失いつつあった。海軍の仁科中尉、黒木大尉が中心になり、九三式酸素魚雷(全長 8.5m)を改良した人間魚雷・回天が作り出された。生産力ではかなわないアメリカに、人間が操縦する必殺の魚雷をもって攻撃を行うという発想だった。小型潜水艇・甲標的、海龍などに比べて小型軽量な回天は潜水艦に最大6基まで搭載、運搬することができた。脱出装置の製作は困難だったため、採用されなかった。昭和19年8月に制式採用され、9月に大津島に回天の基地が設けられた。ここからウルシー方面、沖縄方面に何度か特攻作戦が行われた。訓練で亡くなった者を含めると回天搭乗員・整備員等の犠牲は145名、平均年齢は21.1歳(大津島以外の基地の人員も合計した結果)。
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往復切符1220円を買って、大津島行きのフェリーに人間だけ乗船。フェリーにはでっかい撮影機材を抱えた男性3人組が乗っており、船内をいったりきたり。テレビ局かな? 40分強で馬島港に到着。 |
馬島港に「回天の島」と書かれた異様に大きな看板があった。徳山港付近にも「→回天記念館」の看板がたくさんあったし、周南市が大津島への観光客誘致に力を入れていることが伺えた。 |
回天記念館は山の中腹にある。途中、こんな道を登る。この塀は戦時中、軍隊が訓練していた頃からのものらしい。 |
塀の下側は小学校の敷地。戦時中はここに兵舎があった。 |
校庭に降りる階段は現在は通行止めだが、看板に、回天隊員の体力作りに使われた「地獄の石段」である旨が書かれていた。 |
暑い中、えっちらおっちら坂を登り、回天記念館に到着。 |
両側に並べられている石のプレートには亡くなられた方の名前が記されていた。 |
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記念館の前にあった記念館沿革碑から抜粋。 昭和20年11月10日、最初の回天記念碑が大津島に建立。 最近は戦後60年とかで、戦争の歴史的意義が見直されたりしているが、昭和30〜35年頃までは回天関係のイベントがおおっぴらにできなかった状況が察せられた。 |
建物の前には原寸大の回天模型が飾られていた。以前は映画「人間魚雷・ああ回天特別攻撃隊」が撮影された時に使用された8/10縮尺の模型が展示されていたらしいが、老朽化したため、昭和63年に原寸大模型と差し替えられたそうだ。原寸大とはいっても、回天は海龍等に比べると小さい。搭乗員は艦の中央に酸素ボンベに挟まれるようにして、座って乗るようになっていた。 |
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右;潜望鏡周辺。 |
海底から引き揚げられた回天のエンジン。自衛隊から譲り受けたものだそうだ。 |
回天模型の前に、回天碑(画像)、回天烈士之芳名碑、鎮魂の鐘、回天搭載戦没潜水艦乗員顕彰碑があった。 |