白菊隊慰霊碑

高知龍馬空港近くの白菊隊慰霊碑にお参りしてきた。

高知龍馬空港は、昭和19年、旧日本海軍航空隊の偵察員を養成する目的で作られた。練習生2000名と一般隊員1000名がおり、教育隊4ヶ中隊があった。各中隊が30機の機上作業練習機「白菊」を持っていた。

機上作業練習機は、偵察員に航法、偵察、通信、射撃、爆撃などの実地訓練を行なう機種である。中翼単葉、固定脚の515馬力、最大速度226キロ、巡航速度176キロで鈍足である。

昭和20年3月、大本営は全軍特攻方針を打ち出し、93式中等練習機(通称・赤トンボ)、水上偵察機、「白菊」も本土防空の特攻機として使うことを決めた。教育は打ち切られ、練習生たちは卒業資格を与えられ、実戦部隊に配属された。

白菊は航続距離を伸ばすため、胴体内部に零戦用増槽を取り付けられた。貴重な通信機は大半の機体から取り外され、250キロ爆弾を固定された。

500キロの荷重を加えての離陸、海上100m以下を飛ぶ訓練(レーダーにひっかからないため)、夜間、遠距離を飛ぶ訓練などが行われた。通常、軍用機は編隊飛行するが、白菊は鈍足のため、編隊を組むとまとめて撃ち落とされる可能性が高くなる。また、昼間飛ぶと見つかりやすいので、夜間飛ぶ必要があった。闇夜の飛行は無理なので、特攻可能なのは満月の前後10日間に限定されていた。

昭和20年5月、6月の沖縄戦で、高知海軍航空隊の菊水部隊白菊隊は鹿屋基地から5回に分けて発進し、26機52名が未帰還となった。白菊特攻隊による戦果は不明。

昭和55年、高知空白菊特攻隊の生存者4名が発起人となり、南国市の大徳寺で初の慰霊祭を行った。その後、慰霊祭を重ねるうちに、慰霊碑建立の話が出、昭和62年5月24日(高知空第一次白菊特攻隊突入記念の日)に慰霊碑の除幕式が行われた。

戦争末期の日本は練習機による特攻をせざるをえないほど追いつめられていた。白菊隊慰霊碑を見て、数年前に見に行った指宿航空基地跡慰霊碑と同様の印象を受けた。酷い。犠牲になられた方のご冥福をお祈りします。

参考にさせて頂いたページ特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会ホームページ内)

★白菊隊慰霊碑の地図