奥西表「船浮」と「内離島」探検コース
(5)

小さな資料館・西表館

個人経営の西表の歴史館だ。

田中船長の話によると、「外に出た時、天国のように感じます」→この資料館には冷房がないのだ。暑い暑い〜。

入ってみたら、カメや魚の剥製、船なども展示されていたが、西表炭坑と船浮要塞の展示について力が入れられていた。

田中船長の簡単な説明の後、館内を見て回った。

西表炭坑で行われた非道と、軍隊の残虐行為(船浮にかぎらず)が写真と文章で説明されていた。

じっくり読みたかったが、皆さん、ざっと見てすぐに退出。私一人でずっと残って見ているわけにもいかないので、私もすぐに退出した。外は本当に涼しいね〜(^_^;)

この後、桟橋の前にあるレストラン・ふなっちゃーぬ家で食事。

内容は八重山郷土料理

ぐるくんの唐揚げ、パパイヤのチャンプルー、あおさスープ、シークワーサーゼリー、おにぎり(おにぎりの下にある葉はクバの葉)だった。パパイヤは千切りにして食材として使うと、癖のないタマネギのようである。とても果物とは思えない。
★同類 長崎・スコーコーヒーパークのパパイヤ料理

早々に食事をすませた。集合時間までかなり余裕があるので、先ほど十分に見られなかった西表館を再訪することにした。

船浮(左画像・赤点)よりさらに僻地にあった崎山村青印)について。

昭和23年にマラリアにより廃村になった村。人頭税を逃れようとした人が人里離れたここに移住したという話があるそうだ。現在、崎山村を復活させようという動きがあるようだ。→情報源

復活運動と関係あるのかどうかは知らないが、田中船長は昔、崎山村に5年ほど住んでいたそうだ。人里に出て行くのは数ヶ月に一度の、自由気ままな生活だったらしい。ちなみに、彼は大阪出身。

西表・炭坑要塞関連地図をじっくり検分。
坑道の位置、砲台の位置などが記されていた。

そして、西表で起きた悲惨な事件の概要が随所に書き込まれていた。

西表炭坑・鉱夫の人権を無視した行為(前出)
○安東丸事件
貨物輸送船・安東丸(小さな木造ジャンク船・船長は中国人(「八重山の戦争」には朝鮮人と書かれている)、朝鮮人乗組員30人(「八重山の戦争」では17人説、7人説、4人説))が、昭和17年(「八重山の戦争」では、昭和20年説、18年説)に西表島の内離と外離の間の船浮湾寄りの浅瀬に座礁。貨物は日本軍に没収され、一部は島民に配分。乗員は船浮要塞の建設にこき使われ、十分な食糧も与えられず、最後は鹿川海岸(鹿川集落は明治末期の廃村)に放り出され、大半がそこで餓死した。「八重山の戦争」によると、彼らが戦後、連合国に訴え出た場合、戦争犯罪になるのを恐れてのことだったそうだ。
いろいろ説があるようで、()だらけの文章になってしまったが、要は日本軍による朝鮮人虐待である。
事実がはっきりしない一因は、鹿川海岸で生き残った朝鮮人が日本軍に連行され、その後の消息が不明なので、証言が取れなかったためだろう。
西表島白浜に慰安婦がいた。地元女性もいたが、強制的に連れてこられた朝鮮女性もおり、慰安婦の人数は80人前後(50人説あり)と推定されている。

施設を作った方は、こういう事実があったということをアピールしたかったわけである。

建物の入り口に、新聞サイズの手書き冊子が置かれていた。「特別展示」「沖縄戦と慰霊の日」と書かれている。開けてみたら、戦時中の西表の様子が書かれた記事だった。
○安東丸事件詳細

○西表の祖納、網取集落には250キロ爆弾が落とされた。民家が吹っ飛んだ。

○「高射砲でB29を撃墜した壕口」の写真が掲載されていた。船浮の海岸にあった壕のようだ。撃墜された米軍機は二機。船浮海岸に葬られた飛行士の遺骨は早々に米軍によって収納されたとのこと。

○西表館の館長さんの名前は池田豊吉氏。元中学校教師だそうだ。戦前から船浮に住んでおられた方だそう。

船浮要塞の建設のため、軍は用地を強制収用し、約30世帯あった住民を強制的に石垣島などに移住させた。残るのを許されたのは池田氏の家族をはじめ、地区役職者などほんの数世帯だけだった。池田氏は日本軍による朝鮮人虐待、虐殺を目撃したという。

このような内容のことが書かれていた。八重山の戦争情報は少ないので貴重。じっくり見て正解だった。

西表館の開館は2000年。館長の池田氏にもお会いしたかったのだが、施設に人の気配はなかった。隣の住居に声をかければよかったのだろうが、ツアー中なのでそれも困難。結局池田氏にはお会いできなかった。

ちなみに、このページ「インターネットミュージアム」内)の下の方に、開館当初は、ビデオ上映が行われ、ハブやイノシシも飼育展示していたと書かれている。

●西表館
西表島・船浮集落の中。
「0980−85−6760、9〜18時、無休」と、「やえやまGUIDE BOOK」(南山社、2004年)には書かれている。

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