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ひめゆりの塔 |
有名な観光地・ひめゆりの塔に行ってきた。
到着したのは午後4時を過ぎていたが、まだかなりの数の団体客がいた。囲いの中に横長の石碑があり、観光客が群がっていた。
この横長の石碑は、ひめゆりの塔ではない。納骨堂である。
納骨堂の基部に、女子学生らが勤務していた沖縄陸軍病院第三外科壕があり、その手前の小さな石碑がひめゆりの塔(1946年建立)である。 この塔を建立した金城和信氏のお嬢さん二人は、ひめゆり部隊に所属、戦死された。 |
![]() ![]() 敷地内には、陸軍病院第三外科職員之碑(左画像)、沖縄戦殉職医療人之碑(右画像)、女生徒像などもあった。 |
「ひめゆり祈念平和資料館」は17時半閉館ということで、まだ開いていたので、入館した。 |
館内は撮影禁止だったので、メモを取り取り回った。
昭和19年春頃から沖縄は決戦を想定した守備隊が駐屯するようになった。校舎の兵舎としての使用、食糧増産、陣地構築などで授業時間は削られ、11月からは軍医による看護教育も行われるようになった。県内全ての男女中等中学の生徒は戦場に動員された。ひめゆり学徒隊は沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師、生徒からなる。米軍の上陸作戦の始まった昭和20年3月、222名のひめゆり部隊の生徒が南風原の沖縄陸軍病院に向かった。生徒たちは戦場後方のまともな病舎で働くものだと思いこんでいたらしいが、連れて行かれたのは地下壕。次々と重傷患者が運び込まれ、壕内は大変なありさまだった(南風原陸軍病院壕見学レポ、アブチラガマ見学レポ)。
5月下旬、米軍が日本軍司令部のある首里に迫り、日本軍は砲弾の降り注ぐ中、本島南部への撤退を開始した。ひめゆり学徒隊も南下。自然洞窟などに入り、伝令や食糧確保などの任務をこなしていたが、6月18日に解散命令が出た。米軍への組織だった降伏は行われず、生徒たちは砲弾降り注ぐ地域を徘徊することになった。
ひめゆりの塔の建っている伊原第三外科壕は、ひめゆり学徒を含む陸軍病院関係者、通信兵、住民などおよそ100名がいたが、解散命令直後の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃を受け、80名あまりが亡くなった。
3月の動員から解散命令を受けるまでの約90日間のひめゆり学徒の犠牲者は19名であるのに対して、解散命令後のわずか数日で100名あまりが亡くなった。陸軍病院に動員された以外の犠牲者も含めると、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師、生徒の犠牲者は227名に達した。犠牲者の増えた一因に「生き恥を晒すな」という戦陣訓の教えが生徒に浸透していたことがあげられる。
戦前の学校教育、しだいに軍事色に塗りつぶされた学校生活、壕内の様子など、パネル展示と映像資料を混ぜて説明されていた。生存者の証言は戦慄するような内容だった。生徒一人一人の最期の様子が描かれたパネルは見たくないが見ないといけない(合掌)。
●ひめゆり祈念平和資料館
沖縄県糸満市字伊原671-1、098-997-2100・2101
9〜17時半、無休、300円
公式サイト