伊江島反戦平和資料館(3)

捕虜になった伊江島島民は慶良間諸島の収容所に連れて行かれた。米軍の命令で、陣地に立てこもる赤松大尉の説得に行った青年6名が赤松に斬殺された。

その後、住民は今帰仁→本部→石川に移され、伊江島の遠見に来たのは47年3月だった。阿波根さんは伊江島の真謝というところの農民だったのだが、真謝に帰ることができたのはこの年の年末だった。帰ってきた農民は、復興のために一生懸命働いた。

履くものがなかったので、住民は米軍が捨てた靴を拾って履いていた。

廃物利用で生活に必要なものを作った、という実例。

左から、米軍機残骸のジュラルミンから作られたアイロン(伊江島では炭がなかったため、芋の粕を固めて代用品として利用)、米軍の弾薬箱利用の調理用具(密閉して芋を炊いた住民が開けたとたんに熱湯が噴き出し大火傷した例あり)、カンカラ三線

米軍の射撃訓練の的として使われていたカバーも廃物利用。住民はこれから服を作って着ていた。

「武器を必要とし戦争を作り出す人々にもこの服を着てもらいたい」

ところがその当時から伊江島の63%は米軍の土地になっており、米軍は農民に涙金を渡して土地を入手しようと企んでいた。1953年7月から米軍は農民を騙したり、ブルドーザーで畑や家屋を破壊したりし、強引に手に入れた土地を演習場にしてしまった。生計の手段を失い、餓死する住民も出た。

阿波根氏を中心とする農民は、非道な米軍と戦った。阿波根氏は非暴力による闘争を貫いた。

「反米的にならないこと」「怒ったり悪口を言わないこと」「ウソ偽りは絶対に語らないこと」
「集合し米軍に応対するときは、モッコ、鎌、棒きれその他を手に持たないこと」
「耳より上に手をあげないこと」
「軍が横暴非道な態度で来ても、わたしたちは人間として、また一等国民の態度をもって、軍が礼を受けないまでも正しい挨拶を忘れないこと」

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