伊江島反戦平和資料館(4)

侵入禁止の標識。

米軍が演習場の周囲に建てたもの。その後、米軍は演習場の周囲をフェンスで囲ったので、住民は不要になった標識を引き抜いてきて花壇や豚舎に利用した。

米軍は演習地内で、原爆投下の訓練をしていた。

模擬原爆(左画像中央)、模擬原爆用パラシュート(右画像)。

模擬原爆の後方にあるのが、1955年、農民が撤去した米軍の有刺鉄線。
模擬原爆の下は薬莢の山。
農民は米軍の使った爆弾を拾い、生計の糧にしていた。そうしなければ、生活できなかったのだ。

危険な仕事で不発弾解体中に爆死者も出た。

演習地の外側で草を刈っていた農民が射殺された。米軍は証拠を隠すために演習地を拡大し、農民は演習地内で死んだことにされてしまった。補償金は支払われなかった。
祖国に帰りたい。爆殺。射殺の軍政下に泣く。伊江島の軍用地被害地主。

座り込み、陳情に加え、那覇等で「乞食行進」(1955〜56年)を行った。これをきっかけに伊江島農民の運動は本土でも知られるようになり、支援活動が拡がった。

詳細を多くの写真・説明文で説明。

どうしてこんな写真が残っているのかというと、この戦いを広く世間に知らしめるという戦略だったからだそうだ。

著書の中で、阿波根氏はこう語っている。

「米軍との三十年間の闘いで、私たちは米軍に悪口を言わず、短気をせず、米軍の不利不幸になることもやりませんでした。勿論、日本、ソ連、アフリカのどの国の不利不幸になることもしませんでした。平和の実現はこの心、この行為でなければ難しいと思います。 伊江島土地を守る会」

阿波根さんの考え方がわかるエピソード。

米軍は島の青年を基地のガードマンとして雇った。島民を分裂、対立させるためだった。阿波根さんたちはアメリカ軍の誘いには乗らず、「ご苦労さまです。アメリカの強盗に盗まれた私たちの土地をよく番して下さいよ」とやさしく声をかけて友達になった。すると、今度はアメリカ軍のガードマンである青年たちの方から米軍の情報を阿波根さんたちに知らせてくれるようになった。

使用されたプラカードの数々。

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