喜宝院蒐集館(3)

次は沖縄の通貨史(沖縄の舐めた辛酸)について、館長さんは説明を始めた。

戦前は日本の紙幣。

敗戦後、1958年までは米軍の軍票、

58年から日本返還(1972年)までは普通の米国通貨が使われた。現在ではもちろん、日本本土と同じ通貨が使われている。

27年間に4種類もの通貨が使われたのは世界的に異例のことだそうだ。

日本返還時に「琉球住民が持っている紙幣の確認」が行われ、その時使われた証紙なども展示されていた。
米軍占領時代の切手。
米本土のものとは違う独特の絵柄である。単位はセント。
日本返還時、日本切手、琉球切手、両方の使用が認められた時期があり、両方の切手の貼られた封筒が展示されていた。
米占領時代の煙草。
米占領時代のパスポート。
日本本土に旅行に行くのにも海外旅行の手続きが必要だった。
沖縄海洋博記念銀貨。

こんなものまで幅広く集められていた。

戦時中の竹富島には、波照間のような強制疎開はなかったのか?という私の質問に対して。

強制疎開はなかった、とのこと。館長さんの話では、竹富に駐屯していた部隊のトップがいい方で、住民に疎開するかどうかを決めさせたそうだ(「八重山の戦争」によると、竹富島には中野学校出身の残地諜報員は配置されなかったらしい)。沖縄県平和祈念資料館の映像資料を見たら、自分の意志で竹富から西表の由布島(マラリア無し)に疎開した方の体験談が紹介されていた。疎開中の思い出を語っていたが、楽しそうだった。同じ西表疎開でも、波照間とこうも違うとは・・・。同じ軍隊でも指揮者により、住民の扱いがこうも違うという見本だ。
ちなみに、先代住職が軍隊との交渉にあたったという。その頃からお寺の住職さんだったのか?と思ったら、寺ができたのは戦後だとのこと。
竹富にも空襲はあったが、爆弾二発のうちの一発は不発だったとか。

館長さんとのお話はこれでいったん終了。
館長さんは私が記事をサイトに掲載することを快諾された。というか、自分じゃサイトを作れないので、公開お願いします、とのことだった(^_^)

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