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南風原陸軍病院壕(1) |
南風原の陸軍病院壕を見に行くことにした。見学時間等の詳細を私は知らなかった。なんせ、この壕は数日前(2007年6月18日)から一般公開が始まったばかりなのだ。沖縄に着いてからテレビで公開開始の話を聞き、「戦争遺跡から学ぶ」(岩波ジュニア新書)の地図を見て、見学できるかどうかはわからなかったが、行ってみることにしたのだ。
って、地図がアバウトすぎてどこが壕なのかよくわからない。県道82号適当に流していたら、南風原文化センターの看板が出てきたので、とりあえず、右折。
センターの前にバイクを停めて、受付に行った。
「陸軍病院壕を見学したいのですが、どこに行ったらいいですか?」と言ったら、「予約されてないんですか?」あれ?これって予約制なの?(^_^;)ということで、受付の方に現場に連絡を取ってもらい、4時からの見学に混ぜてもらうことができた。 |
センター内には壕内から出土したものなどが展示されていた。現地まではバイクで5分〜10分程度?ということだったので、10分ほど館内展示物をざっと見て、壕に向かった。
センターを出て、係の方に教わった通り、野球場がある方面へ。病院壕の案内看板が立っていて心強いかった。グラウンド脇の駐車場にバイクを停めた。
壕はどこ?近くにいた運動中の中学生に訊いたら、あちらの山の方です、と教えてくれた。そちらに歩いていったら、ひとけのない壕が見えた。ここか?行ってみたら、そこは壕の出口だった。 |
入り口はその150m先だった。「沖縄陸軍病院南風原壕群20号」と書かれていた。
受付があり、ヘルメットをかぶった小中学生、大人が多数集まっていた。受付で名前を名乗り、300円払った。私の前に入洞した小中学生のグループが係員の説明を受けていた。私も脇で説明を聞いた。 |
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20号は第二外科の中心的な壕で、患者の病室、手術場、勤務者室として使用された。隣接する19号、21号と中央部で連結した貫通壕だった。通路には二段ベッドが並べられ、軍医、看護婦、衛生兵が使ったり、患者が寝かされたりしていた。昭和20年4月からは中央部の十字路が手術場となり、麻酔なしの手術が行われた。患部切断手術がほとんどだった。十字路から21号につながる通路には戸板が並べられ、それが女子学徒たちの休憩所だった。 |
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撤退時、重症患者は置き去りにされた。青酸カリで自決を強要された者もいたそうだ。犠牲者数は不明。 残っている壕の坑木の一部は焼けこげているが、これは撤退後に行われた米軍の火炎放射攻撃のためである。現在は南風原町の文化財に指定されている。 という内容の説明だった。 |
| やがて、私の見学の番が回ってきた。私以外の見学客は男性2名。案内人はKさんという物腰の柔らかそうな年配女性だった。 |
壕の入り口は壕内の環境を守るため、二重扉になっていた。
入り口付近に、戦後、壕の地中に埋まっていた医薬品類(薬品瓶、点滴用瓶など)が展示されていた。撤退時、後で掘り出すことも考え、ここに埋めたのだという。 また、壕を掘った道具としてつるはしが置かれていた。これは、現在の小学生などに、つるはしが何であるか知らない人がいるためなので・・・とのことだった。 |
内側のドアを開けると、壕の中は真っ暗。ここから先は懐中電灯使用で回る。 |
壕は落盤防止のため、壁が樹脂で固められているそうだ。その壁から、当時の瓶が突き出していたり、焼けこげた支柱(画像)が覗いていたりする。 |
Kさんは、「この通路に二段ベッドが並んでいました」など説明しながら進行。 |
十字路が手術場だったそうだが、こんな狭い場所で手術をしていたとは信じられない。しかも無麻酔で・・・。 |
十字路左右の連絡通路は崩落していたが、ここがひめゆり学徒隊の生徒の休憩場所(睡眠場所)だったそうだ。 |
四角くチェーンで区切られた区画があり、天井に「姜」と書かれていた。というか、書かれていたそうである。Kさんが懐中電灯で照らして教えて下さったが、私には字全体の形がよくわからなかった。この字は負傷兵が天井に刻んだものではないかと言われている。 |
金網の向こうでは鍾乳石が発達しつつあった。 |
壕の見学時間は約20分だった。
Kさんの話では、当時、黄金森全体に洞窟陣地が掘られ、ひめゆり部隊の生徒が飯上げ(食事の受け取り)のために通った道も残っているとのこと。ただし、山の中なので、ハブ出るかもしれないし、一人歩きは危険かも・・・とのことだった。後で調べたらこの界隈、埋まった壕の入り口などがあるらしい。時間があったらじっくり下調べしたうえで回ってみたかった。