夕張見聞記(1)

【道道750号界隈の遺構】地図

夕張フォレストYHのおばさんに、夕張で炭坑の遺跡が残っていそうな場所について質問したら、沼の沢駅の奥・道道750号界隈にしか残っていないだろう、とのことだった。私が事前に入手した情報と同じである。

道道750号を遡ったら、途中、道が直進、左折に分岐しているところがあった。左折したら、舗装路はゲートに突き当たった。聞き込みした結果、この奥にも以前は遺構があったが、最近、業者が解体してしまったらしい。現場を確認していないが、何も残っていないのでは?という話だった。

道道750号沿いの廃墟。
残っているのは壁だけで、下側には焼けこげた鉄板や冷蔵庫の残骸が転がっていた。現役当時、どういう施設だったのか、不明。
次に道道の分岐を直進したら、空き地に重機がいた。両側には瓦礫の山。
壊しちゃったのか!

関係者がいたので訊いてみたら、最近取り壊されたらしい。夕張市は取り壊し費用を出せないので、鉄材目当ての業者に取り壊させているそうだ。せっかくの産業遺産がもったいない・゚・(ノД`)・゚・。 

こちらは十連窯の残骸だそうだ。
窯が持ち去られ、針金でぶら下がった煉瓦が宙に浮いていた。

あと1年早く来ていれば・・・本当に残念だ。

【夕張新鉱慰霊碑】地図

★夕張新鉱の昭和56年の事故について

北炭夕張新鉱は昭和45年に計画ができあがり、昭和50年に出炭。今まで安定して出炭していた炭坑(複数)を閉鎖して、巨大な資本を投下、「東洋一の」新鉱に切り替える、ということで始まった炭鉱である。とにかく出炭量を維持することが優先され、安全は二の次だった。

いきなり深部での採鉱が始まった(ガス突出のリスク大)のに、地質調査がいいかげん、ガス抜きボーリングも不十分だった。大事故前年の昭和55年7月にもガス突出があったのにもかかわらず、十分な対策もないまま操業再開。大事故発生の2時間前から現場付近のメタンガス濃度は異常値を示していたのに、保安規定にしたがっての退避命令が出なかった。結果、昭和56年10月16日、ガス突出&坑内火災。鎮火の目処はたたず、救護隊員の中にも行方不明になる者が出た。最終手段として坑内に注水が行われた。この事故で93人の命が奪われた。

北炭が無謀な出炭を焦った理由として、当時、北炭が経営危機に陥っており、国から「生産計画を達成できなければ、補助金を打ち切る」と圧力をかけられたことが挙げられる。すでに鉄鋼資本は海外からの石炭の安定供給に自信を持ち始めていた。国は国内の石炭企業の自立自助を政策の中心に据えており、ここに無理があった。北炭自体にも問題があった。優良鉱区の独占、国家資金の巧みな引き出しと運用、資産の社外持ち出しなどが行われていた。

結局、事件は北炭を悪者にすることで終結。この事件をきっかけに北炭は夕張から撤退、夕張の石炭産業の衰退が始まった。

☆参考文献;「夕張岳よ 永遠に愛を」山影静子(自費出版)
☆画像は石炭歴史館に展示してあった「操業中の夕張新鉱」。

警察官から、清陵町夕張新鉱の慰霊碑があるという話を聞いた。だいたいの当たりをつけ、炭坑住宅団地街の中を走る。鉄筋コンクリートのアパートが立ち並んでいて壮観だ。最近のニュースによると、空き家が増えて、建物の取り壊しが検討されているという。「小学校を複数残して下さい」という貼り紙も。夕張市の金欠は本当に深刻なようだ。

清陵町最上部に、夕張新鉱に至るトンネル(封鎖)慰霊碑が見えた。
トンネル手前には「北炭夕張炭坑(株)夕張新炭坑」「我が新炭坑をかっちり守ろう 出稼ぎと保守と生産で」と書かれた柱が残っていた。
「北炭夕張新炭坑」と上部に書かれた通洞口に近寄ってみると、
霧が立ちこめていた。この奥に壁があるそうだ。入り口部分を壁ではなくて鉄格子で封鎖したのは、遺族からの意見による、とのこと。
昭和58年建立の慰霊碑には亡くなられた方の名前がたくさん彫られていた。合掌。

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